Japan Timesの記事 -浅田匡子さん追悼
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ジャパンタイムスでよく真央選手の記事を書いているジャック・ギャラガーさんが浅田匡子さんの訃報に接し、14日付でコラムを書いていらっしゃいました。
彼と浅田母子との関係は2006年のはじめからあったのだそうで、思い出を書いてくださっていますのでご紹介します。

*拙訳(超ウルトラ意訳)ですので間違いやニュアンスの違いはあるかもしれません。ざっくりとした意味を理解するのに役立てて頂ければ幸いです。また、文中の( )内の文章は私の補足です。
それから、写真はイメージですので時期が合っていないところもあると思います。ご了承ください。



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真央は自身の全てを捧げた母親に恵まれた  -ジャック・ギャラガー

ここ数日は辛かった。この感傷的な気持ちを皆さんもわかってくれると思う。

金曜の夜遅く、浅田真央の母・匡子が48歳という若すぎる死を迎えたことを知った。

日本のスケート界の内部ではここのところ真央の母親の具合がよくないことを分かっていたようだが、この国の大部分の人々にはこの報せは衝撃としてもたらされた。

このことについて感情的に長々と書きたくはない。私は真央と母親をまだ真央が15歳の天才少女だった頃から知っているから。

私が感じた匡子の命が短く断たれた事に対する悲しみは、(私の中に同時に起きた)真央の将来を心配する気持ちによってさらに増した。他の大勢のファンや世間も、そのこと(真央の将来)を案じたことと思う。
このかけがえのない存在を一体誰に置き換えることができるだろう?

悲劇には適切な時期というものはないが、今回については最悪の時期ではなかった。真央は新しいフォームを再発見した時(ジャンプ等の修正が軌道に乗った時、ということでしょうか)彼女は母親の死に直面した。

我々は真央が、これまでのスケート人生で様々な挑戦を克服してきたように、今回のことに対しても戦い抜いてくれることを望むだけだ。しかし現実として、今回のことは彼女が直面してきたどんなこととも全く違う種類の事柄だ。

自分が跳びたい時にトリプルアクセルを跳べないということと、身近な人を亡くすということは全く別のものなのだ。

私と真央と真央の母親とのつながりが始まったのは2006年初めのことだった。真央と母親が東京で行われた日本の海外スポーツライター協会主催の夕食会に出席し、「2005年日本トップアスリート賞」を受賞した時のことだ。
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この会合は急遽企画されたものだったが、その夜協会を訪れた人は記録的な数となった。これまでになく著名なゲストが相次いで訪れた。

会合の最後に、出席していた私は真央の母親が自分の娘に対して外国の出席者たちから示された温かさと愛に、明らかに感動する姿を見ることが出来た。

真央と母親は、特に私の娘のヴィエナ(当時3歳だった)を気にかけてくれた。その夜の最後に、彼らは「あなたのお嬢さんはお人形のようにかわいいですね」と私に言った。

その夕食会は月曜の夜だった。その週の土曜日に私がオフィスにいると、宅配便の人が巨大な箱を担いで私のデスクに現れた。私は彼を見上げ「これは何だ?」と心の中で呟いた。

私は宅配便の男に「誰からですか?」と尋ねた。

彼は宅配伝票を見て、また目を私に戻し「浅田真央さんからです」と言った。

「本当に?」と私は答えた。

私は電車で帰宅する間、その荷物を(あまりに大きいので)引きずるようにして帰ったのを今も覚えている。ようやく家のドアにたどり着いてそれを放り出し、それが誰からの贈り物であるかを告げた時、娘は飛び跳ねて大喜びしていた。

娘が箱を開けてたくさんの動物のぬいぐるみを見つけた時、彼女の喜びは幸福感に変わった。3歳の子供にはこの上ない幸せである。

娘が座ってぬいぐるみに囲まれている間、私は真央と母親の振る舞いの品の良さ(細やかな心遣い)に完全に圧倒されていた。
彼らが夕食会に出席するためにわざわざ名古屋から東京に来たというだけでも素晴らしいのに、これである。

「なんという親子だ」としか考えられなかった。

そうやって私たちの付き合いは始まった。この時から、この国が真央が二度世界チャンピオンになり五輪銀メダリストになるのを見届けると同時に、私たちは折に触れてやりとりを行っていた。
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浅田匡子について一番印象に残っていることは、彼女がはっきりと自分の娘を売り出したい(世界的なスケーターにしたい)と望んでいたことだ。しかし一方で彼女はそれをプロフェッショナルな態度で(節度を持って)行っていた。

我々はこれまでずっと「ステージママ」についての話をたくさん耳にしてきた。だが、彼女はそのようなやり方はしなかった。

彼女は娘の(スケートの)達成の為にできることは可能な限り何でもやった。真央を幼いうちから試合に出し、コーチに手紙を書き、真央と姉の舞を一年以上海外に住まわせたりさえした。
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匡子からの手紙を受け取るたび、そこには「日本のスケーターのことを英語の記事にしてくれてありがとう」と必ず書いてあった。私にとってそのようなコメントは大いに意味のあるものだった。


匡子を最後に見たのはちょうど1年前、真央が新横浜スケートセンターで練習していた日のことだ。彼女は体調がよくなさそうに見えた。私はあの時彼女に会うのがこれが最後だと知っていたらと思う。

私たちの最後のやりとりはそのひと月前、私の娘が(その時8歳になっていた)真央のバンクーバー五輪の活躍を讃える手紙を書いた時のことだ。

私はその手紙のことを殆ど忘れかけていたのだが、その数週間後、私の玄関に荷物が届けられた。

その中には娘あての(おもちゃやぬいぐるみなど)いろんなものが、真央と母親の素敵な手紙とともに入っていた。その中のひとつは、真央がスケートをしているネジ巻き式のオルゴールだった。それは私たちの自宅の目立つところに飾ってある。

私の家族と浅田家とはこのような付き合いをしていながらも、私はそれを報道(記事)に影響させなかった。必要であれば批判をし、賞賛すべきと思えばそう書いた。

真央と母親は、それが私の仕事であることを理解していた。


もし人がその生涯で何を遺したかで評価されるのであれば、浅田匡子は金メダルを取るだろう。

多くのアスリートや若者が愚かに振る舞うこともある現在において、匡子の遺産は非の打ちどころなく育った二人の美しい娘である。
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私にとってはそれがすべてだ。我々が見てきたとおり、スケート界において子供を育てることは容易ではない。しかし彼女はそれを二人も成し遂げた。

真央は私の知る中でもっとも愛されているアスリートだ。そして私は同じように彼女を愛する人を沢山見た。
ここ数日における日本国内と海外からも寄せられた彼女に対する愛情の発露は本当に素晴らしかった。それは人のもっとも美しい姿を表す瞬間だった。

このような若さで母親を亡くした彼女の傷は決して消えることはないだろうが、真央がそれでも進んでいく不屈の力を見つけてくれることをただ望んでいる。

全日本選手権までに2週間を切っている。そして真央は月曜日(12月12日)に出場の意志を表明した。

私はこれが彼女にとって立ち上がるきっかけになればいいと願っている。

遠い昔、賢者は言った。
「人生の20%は何が起きたかで決まる。そして80%はそれに対してどう行動したかで決まる」

これ以上真実を言い当てている言葉は他にないだろう。


2011年12月14日 Japan Times

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記事にはこの写真が貼られ、下記のようなキャプションがついていました。
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「勇敢な:2度世界女王になっている浅田真央は先週のグランプリファイナルを母親の病気と死去の為欠場した。この悲劇にも拘わらず、真央は今月末の全日本選手権に出場することを計画している。」





<参考リンク>
Mao was blessed with a mother who gave it her all By Jack Gallagher


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by toramomo0926 | 2011-12-19 08:10 | フィギュアスケート


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